イオンなどの商業施設のフードコートや、マクド(マクドナルドの事を関西では『マクド』と略して呼ぶ。作文などでは、文字数を稼ぐために『マクドナルド』と、略さず表記されがち)などで、こども達がポータブルなゲーム機やスマホを持ち寄り、楽しそうにゲームをしている姿を見かけることがあります。
ひとりひとりが、ゲーム機やスマホを持っている現代の豊かさを嬉しく思うのです。
僕が小中学生のころは、「友達がファミコンやゲームを持っているから自分も欲しい」と母親に訴えると、「よそは、よそ!うちは、うち!」と言われて、なかなか聞き入れてもらえませんでした。
この「よそは、よそ!うちは、うち!」という呪文。
こどもの僕にとっては、要求を退け、願いを無に還し、涙で枕を濡らす効果のあるとても恐ろしい呪文でした。
それどころか、「○○君は、勉強できるのに。。。」という、それこそ「よそは、よそ!うちは、うち!」とツッコミたくなるような追撃の可能性さえ秘めた防御不可避の呪文です。
しかし、この「よそは、よそ!うちは、うち!」という言葉は、
「他者は、他者であり。あなたは、あなたである。
他者には、良いところも悪いところもあるように、あなたにも良いところも悪いところもある。
他者の悪いところと自分の良いところを比較して優越感を感じたり、逆に、他者の良いところと自分の悪いところを比較して劣等感を感じたりするのは、実に愚かなことである。
それよりも、自分の魅力や才能といった価値に意識を向けて、それを磨きなさい。」
と、自分の魅力や才能といった価値の部分に意識を向けるための言葉とも受け取ることができるのです。
母親が、そんな深いことを考えていたとは思えませんが、「よそは、よそ!うちは、うち!」と唱えるときの母親の気持ちは、「やってあげられなくて申し訳ない」「うちがもっと裕福やったら。。。」という、罪悪感とか劣等感なのではないでしょうか?
母は、自身の罪悪感や劣等感を振り払うために、めんどくさそうに眉間にシワを寄せて、煙を払うように唱える必要があったのかも知れません。
少なくとも、僕にうつむくことなく笑っていて欲しいのだと思います。
なぜなら、
「お母さんらしいこと出来そうにもないわ ホンマごめん」
と訴える母親に対して、うつむくことなく笑っていて欲しいと僕が思うから。
「よそは、よそ!うちは、うち!」
らしかろうが、らしくなかろうが、僕のおかんは、おかんやから。
「よそは、よそ!うちは、うち!」という言葉を、心を傷つける呪文として使うのではなく、自分がすでに持っている魅力や才能に意識を向ける祈りの言葉として使っていきたいですね。